赤城

県のほぼ中央部に位置し、群馬県の象徴とも言えそうな赤城山であるが、不思議な事に、古典和歌とは疎遠であったと言わざるを得ないようである。その一事をもってしても、そもそも古典和歌或いは歌枕というものが、いかに地方の生活者の実感と無縁なところで成り立っているかが理解できるのではなかろうか。

赤城山は(おそらく)古く『万葉集』巻14の「上野国歌」の中に詠まれたものではあるが、実は「赤城」という現在の名称そのものは『万葉集』には見出す事ができず、
上毛野くろほの嶺ろのくづはがた愛しけ児らにいや離り来も[万葉集3431]
と詠まれている「くろほの嶺」が赤城山を指すものと考えられている。この歌は藤原俊成の歌論書『古来風体抄』や『歌枕名寄』にも引用されているのだが、結局「くろほの嶺」は歌論・歌学書におけるそれらの引用によって辛うじて痕跡を残したに過ぎず、後代の実作の中で再生される事はないままで終わってしまったようだ。

さて、「赤城山」ではないのだが、「赤城」の地名を詠んだ和歌が鎌倉時代になって現われた。鎌倉幕府第三代将軍源実朝の家集の中に、
かみつけの勢多の赤城のから社やまとにいかで跡をたれけん[金槐集647]
と、「赤城の社」つまり赤城神社が詠まれているのである。赤城山は古くから神格化された山で、周辺に多数の赤城神社が存在しているが、『金槐集』の詞書には「神祇歌あまたよみ侍りしに」とあるだけであって、その何れの赤城神社を念頭にしてどのような機会に詠まれたものか、皆目わからない。周知度からすれば、赤城大沼の赤城神社、勢多郡宮城村三夜沢の赤城神社、前橋二之宮の赤城神社の何れかである可能性が高いか。
ところで「から社」とは何だろう。辞書の類に見えないようだし、仮に載っていたとしても、この一首から推察された意味が掲げられるに過ぎないであろう。上の引用は定家本『金槐集』に拠ったものだが、実はこの箇所には本文異同があり、貞享本『金槐集』では「かみ社」とされている。「ら」と「ミ」の誤写はいかにも起こり得そうだ。「かみ社」ならば、「神社」或いは「上社」であろうと想像され、単語の意味の問題は解消されそうだが、改めて全体を読み通すと、わかったようなわからない歌になってしまう。「やまとにいかで跡をたれけん」と訝る(?)、その動機が全くわからないのである。訝りでなく賞賛であるとしても、赤城神社の何を、何故このような言葉で称えるのか、その関係性が見出せない。
『夫木抄』の引用でも「から社」とされている事もあり、ここはやはり定家本本文に拠りたい。「唐社」と表記すべきものかどうか確証はないが、我々の大多数と同様に実朝も「唐社」と解し、我々と同じ違和感を感じた。そのギャップに強く関心を喚起されて、「から」と「やまと」を対照した上の歌が詠まれたのだと考えたい。
だがそれにしても、「から社」とは何だろう。異称であるとすれば神社関係の文献に見えそうなものだが、見当たらないとなると、一部に通用していた俗称のようなものだったのであろうか。『金槐集』の注釈では異国風建築の神社と解かれたりしている。神社の建築様式が唐風であるというのも甚だ奇妙な気がするが、もし赤城神社の建築様式が特異であった事を示す文献の所在を御存知の方がいたら、御教示いただければ幸いである。

歌碑
(三夜沢赤城神社の実朝詠歌碑)



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