補説 妙義山と花山院長親


平成22年度の「群馬のことばと文化」の中で「妙義山と中古・中世歌人−能因・信生・花山院長親」と題した話をした。そのうち、能因と信生の和歌については本説で扱ったので、ここでは花山院長親に関して述べた部分をまとめておきたい。但し、和歌ではなく伝承を内容とするものであり、稿者にとっては専門外の分野である。しかも性格が内気に過ぎてフィールドワークによって伝承を蒐集するなど到底稿者に出来る事ではない。所詮は机上の推論に留まる事を予めお断りしておく。

妙義山の主峰白雲山の中腹に、パワースポットとして知られる妙義神社がある。567年の創建と伝えられ、『日本三代実録』にも「波己曽神」としてその前身波己曽神社の名称が何度か見えている。祭神は日本武尊・豊受大神・菅原道真・権大納言長親。
この「権大納言長親」が何故に祭神としてここに名を連ねているのだろうか。

先ずは、権大納言長親=花山院長親について概説しておこう。1350年頃に誕生、1429年に没した、南北朝期〜室町時代前期の歌人である。祖父、尹大納言師賢は後醍醐天皇の側近として知られる人物であり、父妙光院内大臣家賢を含め、三代にわたって後醍醐天皇・南朝に奉仕し、南朝で内大臣に至った。1389〜1392年の間に出家、法名明魏、また耕雲と号す。出家後の1410年代には室町幕府将軍足利義満や義持の信任をも得、和歌活動を共にした。著作に歌論書『耕雲口伝』がある。
祖父師賢は元弘の変で捕らえられ、下総国に配流されてその地で没し、小御門神社に祀られているが(千葉県成田市。但し創建は明治年間)、無論長親は流されたわけでもないし、波己曽山の和歌を残しているわけでもない。因みにこの長親についての先行研究としては井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(明治書院、昭和40・11)や福田秀一氏『中世和歌史の研究』(角川書店、昭和47・3)等があるが、長親と妙義山や妙義神社との関連についての言及は全くない。対照的に、群馬県内で刊行された妙義山関係の書籍の殆どには長親の名が載っており、歴史的事実ではなく地元の伝承に基づいた結び付きである事が想像されるのだが、それにしても両者の結び付きは如何にも唐突に思えるし、内大臣に至ったはずの長親が「権大納言長親」として祀られている点も気になる。

ところで、長親の名が登場する妙義山関係の書籍の中で必ずと言ってもいいくらい触れられているのは、妙義山の名称の由来である。長親の法名明魏は、普通メイギと読まれるが、ミョウギとも読み得る。この明魏が妙義の由来となったとする言い伝えがあるようだ。例として『松井田町誌』からそれに関わる部分を引用してみよう。
公卿であった花山院藤原長親卿は、明徳五年(一三九四)妙義神社の宮司となって、再起を期した。魏々たる山容が明るい朝日に映える妙なる様を見て、自ら「明魏」と号し、後の妙義の名の起こりとなった。近在を始め、各所に南朝方の募兵をしたが、志を果たせないまま、永享元年(一四二九)妙義で没した。この三十五年間に社殿を整え神に奉仕したので、中興の人と崇められ、後に祭神の一人として合祀された。
上は伝承そのものの記述ではないが、一読して伝承に基づいた記述であろう事は明白であろう。南朝の内大臣が突如妙義神社の宮司になってしまうという設定からしてあまりに不自然に過ぎるし、出家したのも没したのも都周辺と考えられていて、妙義ではない。また南朝方の貴族が関東に渡って南朝に与する軍事勢力を募った例としては北畠親房が真っ先に想起されるが、長親に同様の動きがあった事は知られていないし、そもそも1392年に既に南北朝合一が成されている。勿論それによって北朝・南朝の対立が完全に解消されたわけではなく、後南朝勢力の抵抗はしばらく続くが、長親はといえば、足利将軍家や北朝歌壇の和歌活動に参加して、言わば「敵方」との交誼を重ねているのである。
となると、上の記述が踏まえた伝承は史的事実からかけ離れたものであったと認定せざるを得ないのだが、問題は、何故そこまでして南朝の一貴族、歌人であるとはいえ一般的にそれほど有名人とも思えない長親を話の中に呼び寄せねばならなかったのか、であろう。彼の法名と山の名称が同音である事も一因ではあるのだろう。だが、例えば関東に縁が深く、長親よりはるかに有名人である足利尊氏の戒名は「等持院殿仁山妙義大居士長寿寺殿」、こちらは音のみならず表記までも合致する。何故、尊氏でなく長親なのか?

長親と妙義山はおろか関東との接点は文献上に見出せないのだが、僅かなりともその可能性を想定する事はできないかどうか。ある人物を介在させた時に、その僅かばかりの可能性が拓けてくるかもしれない。長親の著作、『耕雲口伝』を引用してみよう。
ここに信州の中書王ときこえさせ給ひしは、かけまくもかたじけなき後醍醐の帝の御子、外祖父は為世入道大納言、御母は贈従三位為子ぞかし。木曽路をわけのぼりて、吉野の奥に住み給ひしに、この道の誉れ幼齢より世に隠れなく、晩年の風格あめが下ためし少なくおはせしかば、朝夕親近して、この道を問ひ奉りしほどに、日頃のあやまち氷の如くに消え、雪の如くにとけて、露ばかりの力量も出来にけるにや。後には新葉集撰定のことをさへ委ね付せられ奉りしかども、いくほどもなくてまた雲水漂泊の身になりて・・・
長親が和歌を学んだこの「信州の中書王」とは、後醍醐天皇の皇子の一人、宗良親王のこと。南朝の本拠地吉野・賀名生を離れ、信濃国伊那のあたりを拠点として周辺で転戦していた。母は二条為世の娘為子で、歌道家の血のせいか和歌にも優れ、南朝歌人の和歌を集成した准勅撰集『新葉集』の撰者としても知られる人物である。
1374年、宗良親王は三十六年ぶりに吉野に戻った。「木曽路をわけのぼりて、吉野の奥に住み給ひしに」の記述が蓋しこの事実に対応するもので、長親は吉野で「朝夕親近して、この道を問」い、その和歌指導に深く心酔したようだ。やがて宗良親王は『新葉集』撰定に着手するが、完成前の1378年に一時信濃に戻り、その留守の間編纂を長親らに託す(「後には新葉集撰定のことをさへ委ね付せられ奉りしかども」)。1380年に河内国に戻った宗良親王は編纂作業を続行、翌1381年に『新葉集』は完成して長慶天皇(後醍醐天皇の孫)に奏覧された。宗良親王はその後また信濃国に帰ったのであろう、1389年以前に没したが、終焉の地は信濃であったとする説が有力である。
あと、「内大臣長親」でなく「権大納言長親」とあった事の関連で、長親の官職の動向を確認しておこう。南朝の官職の動きについては史料が乏しく、長親についても例外ではない。
1371年 「南朝三百番歌合」出詠。作者表記「新中納言」
1375年 12月13日付宣旨案の「上卿花山院大納言」は長親を指すか
1389年 自身の「天授千首」を書写。奥書に「内大臣」
僅かこれだけの史料では極めて大雑把な推測しか成し得ないが、長親が権大納言になったのは1371〜75年の間の事で、1389年以前に内大臣に昇進した事になる。

さてここから大胆な推論を展開する羽目になるのだが、「権大納言」長親と妙義山が関わり合う機会はなかったのだろうか。宗良親王を介在させた時、ごく僅かながらもその可能性が生じてくるようにも思うのである。例えば宗良親王が『新葉集』編纂を長親らに託して信濃に一時戻っている間に、編纂に関する伺いのために信濃に赴く事はなかったのか。或いは、『新葉集』完成後に師を慕って信濃を訪れた事はなかったか。宗良親王の本拠地伊那は上野国とは遠いが、拠点は信濃国内にいくつかあったようで、そこから碓氷峠まで足を伸ばして上野国内に入り、妙義周辺に足跡を残した可能性は皆無ではないかもしれない。宗良親王を仲介させる事によって、両者が結び付く違和感がほんの少し緩和されるように思う。
権大納言当時の長親が実際に妙義山周辺を訪れていたかもしれない…これはあまりに恣意的、推論に推論を重ねた、むしろ暴論である事は十分に自覚している。だがそんな御都合主義的な推測を立てねばいられないほど、私には南朝貴族長親と妙義山との結び付きがあまりにも唐突に思えて仕方ないのである。
しかし、上の暴論が幾許か的を射ていたとしても、それは両者の結び付きのきっかけに過ぎない。そのきっかけから伝承を生み出し、長く温存していた地盤とは如何なるものだったのだろうか。

この問題に対する明確な答を持ち合わせてはいないが、1つの仮説として、群馬という土地が南朝寄りの雰囲気を有していたのではないか、南北朝の対立の終結後までも南朝贔屓のムードが残っていたのではないか、という点を指摘してみたい。
群馬と南朝、と聞いて誰もが真っ先に想起するのは新田氏であろう。後醍醐天皇と決別して反旗を翻す道を歩む足利尊氏と対照的に、最後まで忠義を尽くす武士の代表格が新田義貞であり、1338年に義貞が戦死した後も、義貞の弟脇屋義助、義貞の子義興・義宗、義助の子義治らが南朝の軍事勢力として力を保っていた。義興・義宗・義治は宗良親王の軍勢とともに、観応の擾乱で対立した弟足利直義討伐のために鎌倉に下っていた尊氏を攻撃して悩ませたが、その新田氏の拠点が東毛太田周辺にあったのは周知の通りである。
ところで、南朝側の有名人の1人に児島高徳という人物がいる。その詳しい伝記等は不明であるが、元弘の変で捕らえられた後醍醐天皇の宿所を密かに訪れ、桜の幹に「天莫空勾践 時非無范蠡」と彫りつけた逸話で知られ、特に戦前の教育で天皇の忠臣として高く評価された。この児島高徳の墓(と伝えられるもの)が太田に隣接する大泉町の古海という地にある。付近には高徳寺、児島神社という寺社まである。脇屋義治の配下となり、その縁でか古海太郎広房なる人物を頼って晩年を古海で過ごして没したという伝承があるのだそうだ。
因みにネットで調べたところに拠れば、児島高徳の墓と伝えられるものは全国に9つあるそうで、南朝の忠臣として古くから人気があった様子が窺い知れる。ところで遺跡というものは、その「もの」の存在だけで成立するものではあるまい。その遺跡がそこにある「根拠」とセットになって、初めて意味を成すものであると考える。蓋しその9つの墓各々が、児島高徳がその地に葬られる「根拠」となるような伝承、例えば大泉町のそれにおける古海太郎広房が登場する話のようなものを抱えていた(今日まで伝わっているか否かは別として)に相違ない。
9つの墓所のうちいずれが信憑性が高いかについては、私は判断する術を持っていない。そして、こういう言い方は失礼かと思うが、あまり関心もない。私にとって興味深いのは、南朝軍事勢力の1つ新田氏の拠点太田が、児島高徳というこれまた南朝の有名人を、或いはその伝承を引き寄せている、という事実である。実は児島高徳に限ったわけではない。新田義貞の愛人勾当内侍の墓、後醍醐天皇の孫長慶天皇の墓と伝えられるものも太田にある。新田氏の拠点東毛太田周辺にそういった土壌が形成されていた事は、これらの例で納得されるのではなかろうか。

南朝の軍勢というと後醍醐天皇に忠誠を尽くす人々ばかりのように思われるかもしれないが、必ずしもそんな純粋なものではない。反尊氏・反室町幕府という立場から南朝に荷担した軍勢も少なからずあった。そういう意味での南朝勢力の、群馬における代表的存在は桃井直常だろう。
桃井氏は榛東村出身の一族であり、直常は尊氏の弟足利直義の有力な家臣であった。つまり元々は後醍醐天皇に敵対する側であったのだが、観応の擾乱で尊氏と直義兄弟が対立、直義が没した(病没或いは尊氏に毒殺されたとも)ために反尊氏の立場から南朝に与する事となる。直常の主たる活躍の場は北陸地方であり、群馬の南朝勢力と認められるか不安はあるが、紆余曲折はあるにせよとにかく南朝側に与したこの桃井直常も群馬出身者である事は記憶されて然るべきであろう。

ここで再び宗良親王に話が戻るのだが、『太平記』の中で一度だけ宗良親王が「上野親王」という名称で呼ばれている。先述の通りその本拠地は信濃国であったが、拠点の1つが上野国内にあって滞在した事でもあったのだろうか。滞在までは確認し得ないが、上野国に入って来ている事は疑いない。軍勢を引き連れて碓氷峠を越え、新田の軍勢と合流、ともに南下して足利軍を攻撃しているのだから。
この2つの南朝勢力を結ぶ道、それは南朝軍事ルートとでも呼べるものではないかと想像しているのだが、各々の拠点(といっても宗良親王側については未勘であるが)が南朝色を帯び、それを長く温存していたように、それを繋ぐ南朝軍事ルート周辺もまた南朝色を帯び、その雰囲気を長く伝えていたという事はないだろうか。ここで問題にしている妙義山もそのルート上にある碓氷峠から遠くない(参考までに、上述桃井氏の拠点もおそらくそのルートから離れていないだろう)。花山院長親と妙義神社を関わらせた伝承が朽ちずに残っているのは、こうした温床があったからではないかなどと見通しを立てている。因みに妙義神社には、児島高徳ゆかりと伝えられる灯籠や石碑が存在するという。それらが製作された年代を考証すればどうやら付会に過ぎないようだが、しかし少なくとも伝承世界において、この妙義神社も南朝軍事圏内にあった事を示唆する役割は果たしているのではなかろうか。
更に言えば、都の記録では足利義満や足利義持の和歌活動に出詠したりその遊覧に同行したりと、足利将軍家と交誼を重ねている頃の長親が、伝承の中では妙義で南朝の軍勢を整える画策をしている、史実に比せば荒唐無稽でさえある長親像の造型に、この伝承を支え伝えてきた土壌の性格が反映されているようにも思えるのである。


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