波己曽山

はこそやま、と読む。但し、現在その名称で通用する山はない。妙義神社の古称を波己曽社といい、その妙義神社がある妙義山を指したもの、と考えられている。奇岩怪石を連ねたその独特の山容が、遠目に見る者にさえ強烈な印象を齎す山である。
因みに、その妙義神社には、南朝の貴族で歌人として知られ、『耕雲口伝』等の著作を残している花山院長親も祭神として祀られている。長親の法名は明魏というが、これが現在の「妙義」という名称に深く関わるらしい。

群馬県内の歌枕の大部分は、『万葉集』の東歌の中に登場するものが継承されたものであるが、この「波己曽山」は『万葉集』に見えず、また平安時代以後の用例も非常に少ない。平安時代に1例、鎌倉時代に1例の計2例を検索し得ただけであった。先ずは平安時代の例、『能因集』所載の和歌を紹介してみよう。
草枕夜やふけぬらん玉くしげ波己曽の山は明けてこそ見め[能因集121]
詞書には「はこその山」とあるのみで、修行の旅の途中で波己曽山付近を通過した時の歌か都で題詠的に詠んだ歌か判然としないが、家集でその前後に旅関係の歌が多い点、またこれ以前に用例が見当たらない程に和歌の世界で無名である波己曽山を題詠的に詠む必然性が見出せない点から判断すれば、前者である可能性が高いように思われる。
夜が更けたらしいから波己曽の山は夜が明けてから見よう、と意味内容的にはまことに他愛ない歌である。「玉くしげ」が「はこ(箱)」の縁で「波己曽の山」を導き、「明けて」が「空けて」に通じて「波己曽の山」の「はこ」と縁語関係を結んでいる。そうした「はこ」を巡っての技巧を主目的にした一首であると言って良かろう。

もう一首は、鎌倉時代の東国出身の歌人信生の『信生法師集』に見える例であるが、実は詞書・和歌本文ともに「はこそ」ではなく「はこう」となっている。『信生法師集』は孤本として書陵部蔵本が伝わるのみであるから、他伝本によって校訂する事は不可能であるが、「はこう山」の例が他に皆無であり、またそう呼ばれる山が存在しない事、そして「曽」の草体が「う」に類似する事をも勘案すれば、「はこそ」が「はこう」に誤写されたものと判断して支障ないと思われる。以下には「はこそ」と改めて掲出する事にする。
かうづけや波己曽の山のあけぼのに二声三声鳴くほととぎす[信生法師集26]
詞書には「かうづけの波己曽の山の麓にとどまり侍る暁、ほととぎすの鳴き侍るを」とあり、上の能因詠と同様に、いやそれ以上に確実に、実際に波己曽山近辺で詠まれたもの、その麓で一泊し、暁方に時鳥の鳴き声を聞いて詠んだ歌という事になる。
この歌の奇妙さにお気付きだろうか。詳細はここでは述べないが、古典和歌の常識として、時鳥は一度しか鳴かない。実際の時鳥の習性とは全く別に、和歌の世界ではたった一声しか鳴かない鳥として扱われる。つまりこれは常識破りの歌なのだ。和歌的伝統とは未だ関わりが薄い東国出身者の信生とてその程度の約束は心得ていたであろう事は、『信生法師集』の中に古歌を踏まえた詠作が少なからず見えている点からも十分に想像し得る。いや、時鳥は一声しか鳴かない鳥であるという和歌的通念を承知しているからこそ、このような歌が詠まれたと考えるべきではなかろうか。その通念を知らず、複数回鳴く事が当然であると思って詠んだのだとすれば、一層詠んだ意図がわからない歌になってしまうように思う。時鳥は一声しか鳴かない、しかしこの波己曽山の時鳥は例外的に二声三声鳴く、と詠んだ歌なのだ。
となれば、波己曽山の何らかの特性・属性が時鳥を二声も三声も鳴かせた事になる。しかしその具体的な意味を理解するまでに、率直に告白すれば、かなりの時間を費やし、ある時はたと思い当たった。ヒントは能因詠である。「はこ」の音を含む波己曽山だから、時鳥も「ふた(箱の上部)」声も「み(箱の下部)」声も鳴いたのだ。要するに、「はこ」「あけ」「ふた」「み」と縁語を揃えた歌であった事にようやく気が付いたのである。

波己曽山を詠んだ古典和歌は、結局その名称が「はこ」という音を含む事に対する興味に終始した二首だけで終わってしまった。だがこうした詠み方も、歌枕を詠む上で少なからず用いられた方法であった事は疑いない。



なお、冒頭近くで触れた妙義神社と花山院長親との関係について、その後考察する機会があったので、補説として別に掲げてみた。

補説 妙義山と花山院長親

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