伊香保

県内でも有数の、というより日本でも最も有名な温泉地の1つと言っても過言ではないであろう伊香保は、榛名山の東側に位置している。小説「不如帰」の舞台となり、その生涯をこの地で終えた徳富蘆花に因んで記念文学館が置かれる等、近代文学との関わりも深い。和歌の中には「伊香保嶺」「伊香保沼」といった形でも登場しているが、「伊香保嶺」が榛名山を、「伊香保沼」が榛名湖を指しているとすれば、そもそもは現在の伊香保町よりも広範囲の地域を指し示した地名であったかと想像される。

伊香保は『万葉集』巻14の「上野国歌」22首の中に、
伊香保ろにあま雲いつぎかぬまづく人とおたはふいざ寝しめとら[万葉集3428]
上毛野伊香保の沼に植ゑこなぎかく恋ひむとや種もとめけん[万葉集3434]
伊香保嶺に神な鳴りそねわが上にはゆゑはなけども児らによりてぞ[万葉集3440]
伊香保風吹く日吹かぬ日ありといへど吾が恋のみし時なかりけり[万葉集3441]
上毛野伊香保の嶺ろに降ろ雪の行き過ぎかてぬ妹が家のあたり[万葉集3442]
等、「伊香保嶺」や「伊香保沼」も含めて、その地名が見える歌は8首にも及んでおり、上野国の最も代表的な歌枕であった観を呈している。しかもそこに「神(雷)」「風」という、いわゆる上州名物まで早くも取り合わせとして登場しているのが何とも興味深い。

ところが、平安時代になると、伊香保詠は大きな変貌を遂げる事になるようだ。対象が主に伊香保沼に集中する事もさりながら、その質的な変化を見逃すわけにはいかない。取り敢えず平安時代中期の文献に見える伊香保詠を挙げると、以下の通りである。
呉竹の世々の古事なかりせば伊香保の沼のいかにして思ふ心をのばへまし…

[古今集1003忠岑]
伊香保のや伊香保の沼のいかにして恋しき人を今一目見ん[拾遺集859詠人不知]
かくれなく逢はずなりなばみちのくの伊香保の沼の我いかにせん[古今六帖1685]
かんつけの伊香保の沼に植ゑしなぎかく恋ひんとや種もまきけん[古今六帖3867]
少し解説を加えておけば、「呉竹の」詠は長歌の一部、「かんつけの」詠は若干の本文異同はあるものの前掲万葉3434詠と同じである。また「かくれなく」詠では「みちのくの伊香保の沼」とあり、文字通りであれば別個の歌枕として扱うべきものだが、誤伝の結果である可能性を考慮して、一応ここに挙げておいた。
さて、上の4例のうち万葉歌である「かんつけの」詠を除く3首は著しい共通性を見せている。何れも言葉として「伊香保沼」を詠んではいるが、沼としての実体は全く詠まれていないのである。「いかにして」「いかにせん」を同音で導く序詞的役割を果たすのみであって、歌の主意には関わらない。音のみを残して実体を喪失してしまった、とも言えようか。平安時代も後期になると、
東路の伊香保の沼のかきつばた袖のつまより色ことにみゆ
[堀河百首・源顕仲、『夫木抄』では「袖のつまずり」]
といった、明らかに上とは路線を異にする歌も詠まれているが、概して言えば、平安時代は伊香保がその名を残して空洞化した時期であったという事になりそうだ。

鎌倉時代に入って1215年、順徳天皇のもとで「内裏名所百首」が行なわれた。歌枕百を選び、それを春夏秋冬恋雑に振り分けて、各歌枕を題として詠んだ百首であるが、その百の歌枕の1つとして伊香保沼が選ばれ、夏部に配されたのである。
まこもおふる伊香保の沼のいかばかり波こえぬらん五月雨のころ[順徳院]
こなぎうゑし伊香保の沼のあやめ草長き程をば誰もとめけん[行意]
唐衣かくる伊香保の沼水に今日は玉ぬくあやめをぞひく[定家]
伊香保のやいかにほどふる五月雨に沼のいはかき波もこすらん[家衡]
影くらき伊香保の沼は夏草の露の水際に月ぞやどれる[俊成卿女]
思ふことあやめの草の長き根に伊香保の沼のいかでのこらん[兵衛内侍]
五月雨に伊香保の沼のあやめ草今日はいつかと誰かひくらん[家隆]
いはかきもみごもり深くなりぬらん伊香保の沼の五月雨のころ[忠定]
五月雨に伊香保の沼のあやめ草刈る人なみに朽ちやはてなん[知家]
おりたちて引く手に夏はなぎの葉の伊香保の沼のいかがすずしき[範宗]
かはづ鳴く伊香保の沼にすむ蛍もゆる思ひに音をぞあらそふ[行能]
水鳥の玉もの床やしをるらん伊香保の沼の夕立の空[康光]
平安時代に多く詠まれたわけではない伊香保沼の歌がここでまとめて12首詠出された意義は大きい。しかもたまたま夏部に割り当てられたために、その夏の景が詠まれる事になる。伊香保沼が実体を回復したのである。「いか」を同音で導く、平安時代の用法の典型とも言うべき序詞的用法も3例に見えるが、何れも同時に実体としての伊香保沼を兼ねた有心序へと変化している。また取り合わせられた素材に注目してみると、万葉歌を継承した「なぎ」との取り合わせが2例見える他、「五月雨」「あやめ草」が目立っている。だがそれは、伊香保沼に関わる題材の拡張というよりは、たまたま夏部に配されたがための結果と解するべきかと思う。その意味では、これらの詠はやや没個性化しているとも言えるだろう。
この後伊香保詠が急増するとまでは言い難いが、例えば「新撰和歌六帖」において、
底深き伊香保の沼のいかほどに恋しきことを思ふとか知る[家良]
我が身今なほも頭にかみつけの伊香保の沼のいかが悲しき[信実]
と、やや平安時代的用法ではありながらも、2人の歌人が伊香保沼を詠んでいるし(残りの3首では沼は特定されていない)、
伊香保風吹く日吹かぬ日まじらはばなど我が袖のほす時のなき[宝治百首・定嗣]
くちなしにさえたる雲のかかれるは伊香保の嶺ろに雪ぞ降るらし[夫木抄7261顕朝]
伊香保風いかに吹けばか沼水の春をばよそになほこほるらん[柳葉集]
等、万葉歌を思わせる口吻の歌も詠まれるようになった。おそらく「内裏名所百首」が歌人達に歌枕伊香保の記憶を喚起させる契機となったのであろう。



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