補説1 佐野の舟橋は他国にもあった?


本説中に引用した和泉式部の歌をここでもう一度引いてみよう。
いつ見てかつげずは知らん東路と聞きこそわたれ佐野の舟橋[和泉式部続集350]
紹介したように、和泉国に佐野の地名がある事を知らされた時の歌で、簡単に言えば、佐野の舟橋は東国にあるものと聞き続けていたのに、と真新しい情報を聞いて驚いているのである。これを文字通り解するならば、和泉国にも佐野の舟橋があった事になるだろう。だが、念のために『和泉式部続集』の詞書を引用してみると、「和泉といふ所へ行きたるをとこのもとより、佐野の浦といふ所なんここにありけりと聞きたりや、といひたるに」とあるのみであって、佐野の舟橋があるとは書かれていない。となると、佐野の地名を聞いた和泉式部が連想的に佐野の舟橋を持ち出しただけである可能性も生じてくるだろう。この1首を根拠として、もう1つの佐野の舟橋の存在を想定する事はかなり大きな危険を孕んでいる。
試みに、ネットの検索で「佐野」の地名を求めてみると、多数ヒットする。因みに、上の例の詞書中の「佐野の浦」の地名は確認できなかったが、大阪湾に面している大阪府泉佐野市であろうか。普通名詞「狭野」に由来するのだとすれば、それだけ多くの「佐野」が存在する事も納得されるが、同じ地名であるがための混乱も多々あったのだろう。

本説の方では引用しなかったものであるが、平安時代後期の歌人行尊の家集『行尊大僧正集』の中にも佐野の舟橋の歌が1首登場している。
都にてとはずがたりに思ひ出でよ佐野の舟橋今日ぞ渡ると[行尊大僧正集32]
詞書には「佐野といふ所を過ぐる程に、思ひがけず知りたる殿上人のあひて侍りしに」とあり、「佐野」の地で詠まれた歌である事が知られるが、これが何れの「佐野」であったかの明記までは成されていないのだが、修行者行尊の行動範囲を考え合わせれば、少なくとも上野国の佐野でない事は確実だろう。この歌の前後の詠の詞書にも地名が見えるので、参考までに挙げておくと、30「熊野にさぶらひしに」、31「熊野よりまたほかへこもりに出で侍りしに」、そして32の「佐野といふ所」を挟んで、33「室といふ所にて」、34「和泉に、吹飯の浦と申す所にて」と続いている。この中では33の「室」の所在が定かでなく、「津の国の室のはやわせ」と詠まれたり「紀伊の国の室のはやわせ」と詠まれたりしているのだが、大雑把に言えば和歌山・大阪周辺の歌枕が集中しているという事になろうか。これらが一連のものである保証は実はないのだが、蓋然性が高そうなのは上述の和泉国の佐野、もしくは紀伊国の佐野(和歌山県新宮市。これも歌枕である)であろう。
さて、今度は和歌に「佐野の舟橋を渡った」とある。文字通り解せば、和泉或いは紀伊と思しいその地に佐野の舟橋があった事になろう。だが詞書には舟橋は登場しない。佐野という名の地で偶然に知人の殿上人に遭遇した事を、「佐野の舟橋を渡った」と洒落て表現した可能性をも考慮すべきではなかろうか。

鎌倉時代、藤原定家の子で定家を継いで歌壇を統率した藤原為家の家集には佐野の舟橋を詠んだ歌がいくつか見えるが、その1つに、
立ちわたり都をかけて忍べども程はるかなる佐野の舟橋[為家集1368]
という歌がある。詞書には「佐野の舟橋同五年十月」とあり、「同五年」は建長五年(1253)を表わしている。初句に本文異同があるが、『夫木抄』に載っている
恋ひわたる都をかけて忍べども程はるかなる佐野の舟橋[夫木抄9490為家]
と同一歌と見做して間違いないだろう。
ところで、その『夫木抄』の詞書に「毎日一首中」、左注に「この歌は、建長五年東へくだりけるに、足柄のふもとに佐野といふ所にてよめる歌、毎日一首中」と記されている。年次以外は『為家集』に見えない情報であるが、『夫木抄』が現存していない資料から多く為家詠を入集させている事は確かであり、この点を疑う必要はないだろう。『夫木抄』で「毎日一首中」とされるものには様々な年次のものが見え、その同じ建長五年の詠を拾っていくと、「東へくだりける道にて」(8437詠・8493詠・8622詠)、「東へくだるとて、駿河国にてよむ」(11320詠)等、一連の作品と思しいものが散見する。因みに『為家集』の建長5年10月・11月の注記が付された歌には、東国への道すがらの歌枕を詠む歌が多く見出される。また『為家集』に「旅時雨建長八年十一月鎌倉日吉別当尊家法印勧進」という詞書の歌があるが、『中院集』『中院詠草』に拠れば「八年」は「五年」の誤りである可能性が考えられ、だとすれば、この旅の目的地は鎌倉であったかもしれない。煩瑣になったが、当該1首は、これらの歌とともに、建長五年の冬の関東下向の折に詠まれたものと見做して良さそうだ。
さて、今度の「佐野」は足柄山の麓である。相模国であろうか。西側の、静岡県裾野市にも佐野の地名があるが、ここを足柄山の麓と呼ぶには無理がある。ではその相模国らしい佐野に佐野の舟橋があったのだろうか。上の和泉や紀伊と違って今度はまさしく「東路」ではあるが、よりによって歌道家出身の為家が、他に全く例が見えない相模の佐野に佐野の舟橋があると勘違いしたとはどうしても思えないのである。単に、佐野の地名に触発され、連想的に佐野の舟橋を詠んだに過ぎない、と見る事はできないだろうか。

一応ここまでは、他国の佐野の舟橋の存在について懐疑的な意見を述べてきたが、最後に、同じ名称のものが存在した可能性が高いと思われるものを挙げておこう。近江国のそれである。
永承元年(1046)、後冷泉天皇の大嘗会が行なわれた。その折に悠紀となったのは近江国、悠紀方の歌人を務めたのは藤原資業であったが、その屏風歌18首の中に「佐野船橋調物持運」と記された次のような歌が見えている。
古きあとにあひてぞ運ぶ貢ぎ物佐野の舟橋道も絶えせず
大嘗会屏風和歌は、悠紀・主基にあてられた国の名所を描いた屏風に添える和歌であり、「佐野船橋調物持運」は屏風のその面の絵柄の説明に当たるが、近江国の名所を詠んだ和歌が並ぶ中に佐野の舟橋の歌が含まれているのである。更に、大嘗会和歌で佐野の舟橋が詠まれたのはこの時だけではない。承保元年(1074)の白河天皇の大嘗会において大江匡房が悠紀方(やはり近江)の風俗和歌の「辰日楽急」として
山もとや佐野の舟橋長々と楽しきことを聞きわたるかな
と詠み、建久9年(1198)の土御門天皇の大嘗会での悠紀方(やはり近江)の屏風和歌の中にも、「佐野船橋運調人多往復」と記された、
貢ぎ物運ぶよほろぞさりもあへぬ佐野の船橋音もとどろに
という藤原光範の歌が見えている。
大嘗会という重大行事での和歌に3度も詠まれ、屏風の絵柄にその絵まで描かれていたこの佐野の舟橋は、やはり上の3例とは一線を画して考えられねばならないだろう。『夫木抄』が佐野の舟橋の所在を「近江又上野」とし、『歌枕名寄』が近江国の歌枕を列挙する中に佐野の舟橋を載せて「上野同名アリ」と注記するのも、故なしとしない。平安時代も半ばを過ぎた頃に急に和歌の世界に現われたこの佐野の舟橋は古くから伝わるものではなかったかもしれないが、そう呼ばれたものが当時の近江国に存在した事は最早疑い得ないと思うのである。
因みに、この近江国の佐野の舟橋と上野国のそれとの詠まれ方の大きな相違にも注目しておこう。大嘗会という機会に詠まれる歌であるから、当然歌の内容は祝儀性を伴う。例に挙げた3首のうち、資業詠と光範詠では繁栄が詠まれ、匡房詠では不安のない世が謳歌される如くである。そうした歌で詠まれる佐野の舟橋は、不安定で頼りないという舟橋の属性とは無縁でなければならない。つまり、本説で辿ったように恋の不安定性を象徴するに至る上野の佐野の舟橋とは、同名でありながらも全く路線を異にするものであった。


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