補説2 佐野の舟橋と定家神社


佐野の舟橋の跡地とされる近く、高崎市下佐野町、上越新幹線の高架のすぐ端に定家神社がある。その近くには常世神社もあり、こちらが佐野の地を舞台とした「鉢木」に因んだものである事は明白であるが、何故この地に、藤原定家の名前を冠した神社があるのか。やはりそこには何かそれなりの「必然性」が潜んでいると考えねばなるまい。万が一それが客観的に見れば付会であったとしても、である。
定家は順徳天皇が主催した「内裏名所百首」の出詠メンバーの一員であるから、勿論そこで佐野の舟橋の歌を残しているし、和歌活動が本格化する最初期に詠んだ「初学百首」の中でも佐野の舟橋を詠んでいる。ともに本説で掲げた和歌であるが、再掲しておこう。
恋ひわたる佐野の舟橋影絶えて人やりならぬ音をのみぞなく[拾遺愚草79]
ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると[拾遺愚草1273]
その意味で確かに定家は佐野の舟橋と関わり合いを有すると言える事にもなろうが、上の2首は定家の和歌の中で周知されたものとはどうにも言い難い。極端な言い方になるが、それなら例えば「内裏名所百首」に出詠した歌人全員が神社に祀られる可能性があった事になる(無論、その全員が神格化するに足る歌人であったわけではないが)し、定家が詠んだ歌枕の数だけの「定家神社」が建てられた可能性もあった事にもならないだろうか。必然性というにはあまりにも脆弱に過ぎる。

さて、本説で「内裏名所百首」の歌を列挙したのだが、その中に実はいささか奇妙な歌が1首含まれている事にお気付きだっただろうか。
もらさばや波のよそにも三輪が崎佐野の舟橋かけじと思へど[忠定]
「三輪が崎」も地名であるが、佐野の舟橋と合わせて詠まれているからには、三輪が崎は佐野の舟橋の近隣に存在する地であるはずであろう。しかし佐野の舟橋の周辺には、三輪が崎或いはそれに類する地名は見当たらないのである。
だが、「三輪が崎」と同一であろう「三輪の崎」が「佐野の舟橋」でなく「佐野」とともに詠まれているかなり有名な和歌が、『万葉集』の中に見えている。
苦しくも降りくる雨か三輪の崎佐野の渡りに家もあらなくに[万葉267、新勅撰500]
そう、三輪の崎と佐野は確かに隣接しているのだ。無論、この「佐野」は群馬の佐野ではない。新宮市三輪崎と新宮市佐野、つまり紀伊国、補説1の中でも言及した和歌山県の佐野である。上の忠定詠はこの万葉歌を踏まえたものであろうが、紀伊国の歌枕と上野国の歌枕とを隣接させてしまったのである。それが作者忠定個人による「誤認」なのかどうかは今は措いておこう。

ところで、上に挙げた万葉歌が有名なのは、それを踏まえて詠まれた定家の和歌1首が有名であるせいでもあろう。
駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野の渡りの雪の夕暮[新古今671・定家]
では、この歌における「佐野」は一体どの佐野なのであろうか。上の万葉詠を踏まえ、同様に「佐野の渡り」という詞続きで詠まれた「佐野」は、やはり同じく和歌山県の佐野と考えるしかないだろう。むしろ南国的なイメージさえあるその土地が雪景色の中で詠まれる違和感をも承知した上で、そう認定せざるを得ないのである。だが、その認定が定家自身の認識と合致しているのかどうか。それに関する本人の発言が見当たらない以上、状況証拠的な資料から認識を推測する他ないのだが、平安時代後期に成立した藤原範兼『五代集歌枕』では、「みわのさき」の例歌の1つに前掲万葉歌を挙げ、「みわのさき」の注記として「大和御本云、越前歟」と記載する。当然、それに隣接する「佐野の渡り」も大和或いは越前でなければならないことになる。また順徳院の『八雲御抄』では「渡」の項に「さのゝ」、「崎」の項に「みわのさき」が挙げられ、ともに「大」の注記が付されており、大和国の歌枕として扱われているのである。これらに拠って想像する限り、「三輪」に引かれたせいであろうか、「三輪が(の)崎」は大和の地名とする認識が一般的であり、必然的に、それと隣接した「佐野の渡り」も大和の歌枕であると見做されたのであろう。
では、少し時代を下って成立した『歌枕名寄』ではどのように扱われているだろうか。大和国「三輪」の項の中に「崎并佐野渡」とあり、そこに万葉詠と定家詠とが配置されている。『五代集歌枕』以来の認識に沿った結果が伺われることになるが、実は同書の中にはもう1つ、2首が並んで配置された箇所が存する。上野国「佐野」の項に「渡神崎」の項目があり、そこに2首が重出しているのである。即ち、平安以来の大和国説とともに、「佐野の渡り」を上野国の歌枕と見做す異説が掲出されていることになる。
ここである意味で参考になりそうのが、先に挙げた「内裏名所百首」での忠定詠であろう。「三輪が崎」と「佐野の舟橋」を詠み入れたこの歌において、「佐野の舟橋」の「佐野」と「佐野の渡り」の「佐野」とが同一視されていたのだが、まさにその同一視、混同が上野国説を発生させた淵源であったであろうことは想像に難くない。「舟橋」「渡り」という、その「佐野」が水辺に所在することを表わす語が付随することも、両者の混同を促す一因になったであろう。忠定詠を上野国説の淵源と考えるわけではない。誤認されやすかったことを示唆する一例に過ぎない。
上掲『五代集歌枕』の注記に越前国説が見えたが、『歌枕名寄』の上野国「佐野」の「渡」の項には「或云大和国云云、仍範兼卿彼国載之了、或云近江或云丹後或云摂津、説説雖多管見在当国、仍重所載之也」とあり、同書成立当時には「佐野の渡り」の所在について多様な説が並存していたことが知られるが、その中で『歌枕名寄』編者は敢えて上野国説に拘り、大和国に挙げた2首を上野国で再掲出した。この編者の判断を一般化して、上野国説が大和国説に次いで有力であるかの如く考えることは危険であろうが、少なくとも中世においては、「佐野の渡り」を上野国の歌枕と見る説が存在していたことは確認された。

高崎の佐野の地に定家神社が存在する根拠は、おそらく「佐野の舟橋」の「佐野」と「佐野の渡り」の「佐野」とを混同して発生した、定家の「駒とめて」詠で有名な「佐野の渡り」を上野国の歌枕と見做す、中世歌学の一説にある、と考えたい。


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