佐野の舟橋

地名「佐野」の語源は普通名詞「狭野」であったようで、日本各地にその地名が残っている。例えば北関東においては栃木県の佐野市が圧倒的に有名だが、群馬の「佐野」という地名を聞いて直ちに所在地がわかる人は、必ずしも多くないだろう。今の高崎市、倉賀野駅近くの烏川沿いに、上佐野町・下佐野町・佐野窪町の名が辛うじて残っている。実はその佐野こそが、中古・中世の和歌の世界で、いやもっと広範に古典文学の世界で最も有名な群馬県内の地名だった、と思う。北条時頼が佐野源左衛門常世に宿を求めた、謡曲「鉢木」の舞台でもある、そう言えば少しは納得されるであろうか。

『万葉集』巻14の「上野国歌」の中で、この佐野の地名は以下の3首の歌に詠まれている。
上毛野佐野のくくたち折りはやし吾は待たむゑ今年来ずとも[万葉3425]
上毛野佐野田の苗のむら苗にことは定めつ今はいかにせも[万葉3437]
上毛野佐野の舟橋取り放し親はさくれど吾はさかるがへ[万葉3439]
数として多いわけでもないが、この中に平安時代以降の歌人達に甚だ強烈な印象を与えたらしい歌が1首あった。3439番である。「舟橋」というのは、川に舟や筏を並べて繋ぎ、その上に板を渡した仮の橋を言うが、そのいわばエキゾティックな情景が都の歌人達を大いに刺激したのではなかろうか。以下、この「佐野の舟橋」を中心にして述べていく。

平安時代中期、既にこの「佐野の舟橋」はある程度有名であったらしい。例えば『枕草子』に「橋は、あさむつの橋、長柄の橋、あまびこの橋、浜名の橋、一つ橋、うたたねの橋、佐野の舟橋(以下略)」と挙げられているし、『能因歌枕』にも「橋を詠まば、は(ママ)にはの橋、浜名の橋、佐野の舟橋とも詠むべし」とある。また、和泉国に佐野の地名がある事を知らされた和泉式部が
いつ見てかつげずは知らん東路と聞きこそわたれ佐野の舟橋[和泉式部続集350]
と詠んでいるのも、当時その存在や所在についての知識が歌人達の間に広まっていた事の証左となるであろう。但し、この頃の和歌にはまだ用例が多いわけではない。
東路の佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるを知る人のなさ[後撰619等]
東路の佐野の舟橋はじめより思ふ心ありいとひすな君[古今六帖2557]
後撰詠では初二句が「橋」の縁語「かけて」を導き、更に同じく縁語である「わたる」を連ねて、古今六帖詠では「舟橋」が同音の「はじめ」を導く。ともに序詞として用いられるのみであり、実体としての舟橋が詠まれているものではない。上掲万葉3439詠の初二句は序詞とも実景とも解せるため、構造的類似性を指摘する事は難しいが、しかし後撰詠・古今六帖詠ともに恋歌の中で用いられているあたりには、万葉詠との一脈の繋がりが感じられるようにも思う。
そして、数量的に増加し始める傾向を見せる平安時代後期になると、同時にその詠まれ方も多様性を示し始めるようだ。
いかがせん佐野の舟橋さのみやはふみだに見じと人のいふべき[永久百首・忠房]
「佐野」が同音で「さのみ」を導き「橋」の縁語「ふみ」と言う、技巧上の必要性から「佐野の舟橋」を引き合いに出しただけの、上記の用法の応用のような歌も引き続き詠まれる一方、「佐野の舟橋」を実体として詠む歌も多くなってくる。
東路の佐野の舟橋くちぬとも妹しさだめばかよはざらめや[堀河百首・顕季]
では、佐野の舟橋を恋人のもとへの通い路の途中に設定している。殊更に古風な口吻は、万葉歌との強い関係を想起させるであろう。
今更に恋路にまよふ身を持ちてなに渡りけん佐野の舟橋[堀河百首・師頼]
さらぬだに道ふみまどふくもる夜にいかで渡らん佐野の舟橋[田多民治集155]
「まよふ」「まどふ」とあるように、ここでは「佐野の舟橋」が単なる「橋」でなく「舟橋」であるが故の属性、つまり「不安定さ」が明確に意識されている。前者は、恋そのものの頼りなさ、はかなさを舟橋の不安定性で象徴しているようにも読め、ここまで殆ど「佐野の舟橋」が恋歌の中で詠まれてきた事実を考え合わせると、その象徴化が非常に興味深いが、「遇不逢恋(あひてあはざるこひ)」題で詠まれた事を踏まえれば、「舟橋」であるがために途絶えて、逢えなくなった事を表わすと考えておくのが穏当だろう。
夕霧に佐野の舟橋音すなり手なれの駒の帰りくるかも[詞花328俊雅母]
は場面を佐野の舟橋に設定した必然性が今一つわかりにくい歌だが、舟橋であるがために軋むような音を想定しているのだろうか。
五月雨に佐野の舟橋浮きぬればのりてぞ人はさし渡るらん[山家集223]
風吹けば佐野の舟橋波越すと見ゆるは葦の穂末なりけり[林葉集618]
は、ここまで見てきた例歌の中で最も叙景的な2首であろう。当然ながら佐野の舟橋が実体として詠まれており、それぞれの趣向、つまり川の増水のために浮く事も、風に靡く葦の穂に埋もれたように見える事も、やはり「舟橋」としての属性と深く関わっている。

中世になると佐野の舟橋を詠んだ例は更に増加する。
恋ひわたる佐野の舟橋影絶えて人やりならぬ音をのみぞなく[拾遺愚草79]
東路の佐野の舟橋白波の上にぞかよふ花の散るころ[秋篠月清集966]
東路の佐野の舟橋明日よりや暮れぬる春を恋ひわたるべき[後鳥羽院御集220]
よばふべき人もあらばや五月雨に浮きて流るる佐野の舟橋[千五百番歌合・越前]
等、新古今歌人達の和歌の中に佐野の舟橋は散見するが、とりわけ特筆すべきなのはまとめて12首もの歌が詠まれる機会となった、1215年の「内裏名所百首」であろう。順徳天皇内裏で行なわれた百首歌で、歌枕百を選んでそれを春夏秋冬恋雑の各部に振り分け、その歌枕を題として詠んだものであり、その百題の1つに佐野の舟橋が選ばれた。恋部にあてられたのは、ここまでの流れを辿れば当然の処置と言えるだろう。
かけてだに契りし仲はほど遠し思ひを絶えね佐野の舟橋[順徳院]
人知れぬ心をいそのかみつけやかけてもふりぬ佐野の舟橋[行意]
ことづてよ佐野の舟橋はるかなるよその思ひにこがれわたると[定家]
東路の佐野の舟橋霧こめてよそにのみやは思ひわたらん[家衡]
尋ねても渡らぬ仲の月日さへかげ絶えはつる佐野の舟橋[俊成卿女]
東路にかけては過ぎし中河の瀬絶えもつらし佐野の舟橋[兵衛内侍]
思ふ人波の遠方尋ぬべき佐野の舟橋えやはうごかん[家隆]
もらさばや波のよそにも三輪が崎佐野の舟橋かけじと思へど[忠定]
なかなかにかくる心も苦しきに絶えなば絶えね佐野の舟橋[知家]
かけて猶いく世か恋ひんよそにのみ聞きこそわたれ佐野の舟橋[範宗]
絶えねただうきにつれなき身なりともさのみは待たじ佐野の舟橋[行能]
東路や佐野の舟橋いたづらに渡りしころも袖やぬれなん[康光]
「かく」「わたる」といった「橋」の縁語、「佐野」「さのみ」の同音の繰り返しの技巧は既に見えたが、新たにやはり「橋」の縁語である「絶え」が5例も見える点は注目される。「舟橋」である事を意識したためであろうか。ところで、恋部に割り当てられた事もあってか、これらの中に実体を詠む歌はむしろ少ないのだが、かといって平安中期のように序詞で用いられているわけでもない。では佐野の舟橋は何かと言えば、はかない恋、頼りない恋路の比喩・象徴としか言いようがないのではなかろうか。もともとはかなく不安定な「舟橋」の属性を有し、その殆どが恋歌の中で詠まれるという歴史を経てきた、その必然的な結果がここに提示されているように思われるのである。

佐野を舞台とした謡曲として先に有名な「鉢木」を挙げたが、もう1つ「舟橋」がある。ある男が佐野の舟橋を渡って女のもとに通っていたが、それを厭う親が橋の板を外し、知らずに渡ってきた男は川に転落して溺死する。その邪淫の妄念故に地獄に落ちた魂が、旅の山伏によって救われる話であり、明らかに万葉3439詠を踏まえたものである(引用もされている)が、強い決意を歌う万葉歌と悲恋の謡曲を一直線に結んで済ませるのはやや唐突な気もする。下敷きにされた伝承が存在した可能性もあるが、それとともに、中古から中世にかけて和歌の世界で確立していく佐野の舟橋のイメージも、悲恋の謡曲の形成に幾許か関わっていたのではないだろうか。



なお、佐野の舟橋に関連して、触れておきたいとは思いながらも趣旨が錯綜する事を避けるために上では割愛した事柄もあり、別に補説の項を立てる事にした。

補説1 佐野の舟橋は他国にもあった?
補説2 佐野の舟橋と定家神社

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