多胡の入野

多野郡吉井町石神に「入野遺跡」がある。入野中学校に隣接した、古墳時代後期のものとされる竪穴式住居等から成る遺跡であり、そこから約2kmほどの北、吉井町池に所謂上毛三碑の一つ、多胡碑があることを考え合わせると、古代におけるこの一帯の文化の高さが想像されるだろう。
「群馬県の歌枕」トップページのマーク、及びこのページのタイトル画像でのマークは、一応この「入野」の位置に付したつもりである。但し、便宜的な措置であると告白せざるを得ない。

この「多胡の入野」も、早く『万葉集』の東歌に見えながらもその後詠まれることが極めて稀であったものだが、まずはその『万葉集』所載の1首を挙げてみよう。
吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野のおくもかなしも[万葉集3421]
万葉仮名表記や枕詞の掛り方等の問題を有する歌であるが、ここでは当面の問題のみに絞りたい。この歌における「多胡の入野」とは地名なのだろうか。それとも、「多胡」はともかく、「入野」は固有名詞でなく普通名詞、入り込んで奥深い野(『日本国語大辞典』)といった意味を表わしているに過ぎないのだろうか。
無論、普通名詞としての呼び名が固有名詞、地名として固定するケースは多々ある。試みに「入野」をインターネットで検索してみると、日本中のあちらこちらに「入野」(読みは「いりの」か「いるの」か確認していないが)の地名が散在している様子が知られ、蓋しそれらは普通名詞から固有名詞へと発展したものだったのだろう。では上の万葉歌の「入野」はどうなのだろう。つまり、「入野」は万葉時代に存在した地名だったのか否か。
現在では吉井町に合併されてその名を留めていないが、かつてこの付近に「入野村」が存在した。この「入野村」の名称は古くからの地名を長く継承してきたその名残であるのだろうか。残念ながら答えは否である。この名称は、明治時代の村合併に際して上の万葉歌に因んで用いられたに過ぎない(このあたりに関しては、北川研究室のページ、「公開講座資料」中の「今に生きる群馬の古代地名」参照)。もちろんこの一事で地名説を否定することはできないが、古い文献に地名としての「入野」が見えない限りは普通名詞的に理解する方が穏当であると考えたい。上でマークが便宜的なものである旨をお断りしたのもそのためである。

平安時代後期から中世・近世にかけて成立する歌枕書類には、「多胡の入野」が上野国の歌枕の1つとして取り上げられている。実状はともかくとして、歌学の世界では、「多胡の入野」という形で地名として認識されていた、ということになろう。だが、万葉の1首は記憶されながらも、上述の通り新たな和歌の中で再生されることは少なかったようで、管見の及ぶ限りでは以下の僅か3首しか見出せなかった。
葛の葉をふく夕風にうらぶれて多胡の入野に鶉鳴くなり[新続古今1749季広]
露深き多胡の入野の草枕ぬれてもこよひまたやむすばん[新撰六帖・光俊]
暮れゆけば月ぞ宿かる草枕多胡の入野の秋の白露[自葉和歌集(中臣祐臣)]
光俊詠と祐臣詠は上記万葉歌に基づいたものと判断して良かろう。万葉歌は恋歌であるが、第3・4句「草枕多胡の入野の」の「草枕」の連想から、旅の歌へと主題を転換し、野での旅寝という状況から自然に「露」を取り合わせた歌である。
1首目は二十一代集の最後『新続古今集』の歌として掲出したが、『万代和歌集』や『夫木和歌抄』等にも見える。作者源季広は、平安時代末期の『千載集』初出歌人の季広であろうか。となれば3首の中で最も早く詠まれたことになるのだが、何故ここに「多胡の入野」が登場するのか、『新続古今集』『万代和歌集』の詞書によれば「鶉」を詠んだ題詠歌であるが、何故その舞台として「多胡の入野」が選ばれたのか、「葛」や「鶉」といった景物との結び付きの由来が奈辺にあるのか、私にはよくわからない。
参考までに、「さを鹿の入野」「旅人の入野」「狩り人の入野」といった詞続きで詠まれる「入野(いるの)」という歌枕がある。所在については諸説があって明らかでないが、例歌は非常に多い。その「入野」と「鶉」との関係についても参照してみたが、特に顕著な関わりは認められなかった。「入野」と「鶉」との関係が「多胡の入野」と「鶉」との関係に拡大された、という可能性を探ってみたのだが、その想像も的外れであった、という次第である。



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