碓氷

碓氷郡松井田町と長野県の軽井沢町との境、碓氷峠の周辺。近くをいわゆる五街道の1つ、中仙道が通る。古く『日本書紀』にその名称が見えており、日本武尊が碓氷山から南東の方を臨み、海に身を投じた亡き弟橘媛を偲んで「吾嬬者耶(あづまはや)」と三歎した伝承はよく知られている。因みに、これは今回ネットでの検索を通して知った事であるが、長野県の県歌にも「吾妻はやとし日本武(やまとたけ) 嘆き給ひし碓氷山 穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道」と、日本武尊伝承を踏まえた形で碓氷山が登場しているのだそうだ。

さて『万葉集』の中に「碓氷」の地名は、巻14の「上野国歌」と巻20の防人歌に1例ずつ、計2例が見出される。
日の暮に碓氷の山を越ゆる日はせなのが袖もさやに振らしつ[万葉集3420]
ひなくもり碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも[万葉集4431]
旅行く者と残されて見送る者、歌う立場は逆ではあるが、2首の状況は酷似している。碓氷を越えれば信濃国、つまり他国である。上の2首は、国境にある山という碓氷の地理的条件に対する認識を前提にして成り立っているのである。
中古・中世においては、平安時代後期の藤原範兼『五代集歌枕』では「碓氷の山」「碓氷の坂」の項目のもとに万葉歌2首が引用され、同『和歌童蒙抄』の「坂」の項目に後者が引用され、藤原清輔『奥義抄』の「出万葉集所名」に「碓氷の山」と「碓氷の坂」が挙げられ、また鎌倉時代以後も『夫木抄』に「碓氷の山」「碓氷の坂」として2首が収められ、『歌枕名寄』でも「碓氷山」の項目に2首が引用される、という具合に、碓氷は『万葉集』に見える歌枕として確実に記憶され続けている。だが一方、実作に碓氷が用いられる事は極めて少なく、
白妙に降りしく雪の碓氷山夕越えくればしかも道あり[宝治百首・定嗣]
くらいしか見出されない。過去の歌枕として記憶されるに過ぎなかった、という事になろうか。

江戸時代になり、歌枕「碓氷」は少しばかり存在感を取り戻したように見える。それは、近世初期に東山道に基づいた中仙道が整備され、宿駅も設けられて、近辺への人々の往来が活発化したという交通事情の変化と関わるものであったと想像される。
との曇り碓氷のみさか霞みゐてあづまの国ぞはやく春なる[うけらが花]
には、微かながらも日本武尊伝承の面影が感じられる。真淵門下の国学者でもあった加藤千蔭らしい詠みぶりと言えそうだ。
また、唱歌「紅葉」の詞は碓氷峠周辺の紅葉の風景に触発されたものだそうだが、江戸時代に既に紅葉の名所として謳われていたようで、
山の名は碓氷といへどいくちしほ染めて色濃き峰の紅葉葉[千曲の真砂]
碓氷とはいつの代よりか濃き紅葉昔の人に会うて問はばや[閑度雑談]
といった、紅葉を取り合わせたものも詠まれている。ともに名称「碓氷」が紅葉の色の「濃き」と対照されているのが一目瞭然であろう。名称に着目した機知的趣向というのは歌枕詠の典型的手法の1つだが、いささか薄っぺらな印象がある事は否めない。




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